取材記事

【福西本店】会津に300年続く“まちの原風景”は、未来に伝える日本のアイデンティティー

会津若松市街中心部、大町通り(赤レンガ通り)に黒漆喰で塗られた異色な店蔵があります。

福西本店。

2018年6月にリニューアルオープンし、現在は観光客向けのお土産を扱うお店、ギャラリーとして人気です。

店構えは大変美しくリニューアルされており、同時に当時の趣を残したままの蔵や茶室、生活空間、そして会津に残されていた芸術的な調度品を見学することができます。

今回は、この福西本店の成り立ちや魅力について、福西本店顧問の吉田孝様を取材しました。

綿に始まり、綿に終わった福西家

吉田さん:

福西家は300年ほど前、初代が奈良の唐院より会津に移って商売を始めたのがきっかけです。
以降代々「伊兵衛」という名前を襲名し、12代に渡ってつないできました。
今が13代目になります。

ここの建物は明治・大正・昭和それぞれにできたもので、8代、9代、10代目伊兵衛が建てたものです。

この商家は、もともとは綿(わた)から始まりました。
同時に最後にやった商売も、また綿。
だから綿で始まり、綿で終わった家なんです。

綿が日本に入ってきたのは15世紀。
これは革命的なことでした。
それまで庶民が日常的に使う繊維は麻。
だから肺炎になりやすく、日本人の寿命は短かった訳です。

一方、綿は暖かいから風邪をひかない。
さらに16世紀に入ると戦争もなく平和になり、わずか100年で日本の人口は3倍(約3,000万人)になりました。

綿は当時、北国では生産や織物加工が難しく、上方から綿の布や古着を仕入れて売るというのが通例でした。

つまり、この家の商売は古着屋だったんです。
それがここの商売の起こりです。

―――会津木綿とは違うのですか?

吉田さん:

江戸中期以降になって綿の製造を北国でも作れるようになってからできたのが、会津木綿です。
この頃には藍も地元で作れるようになり、染めの技術も発展しました。
江戸後期以降に爆発的に増えたと考えています。

綿を飛躍的に作れるようになった背景には、イワシを肥料で使う(畑に棒を刺して、深い穴を開けて、干しイワシを入れる)ようになったからです。

同時にイワシが取れるようになったのも、綿が取れるようになったからです。
綿のおかげで網を作れるようになり、大量にイワシを獲れるようになりましたという、いいスパイラルがあったのです。

―――イワシと綿の深い関係は知りませんでした。

施設内を周りながら案内してくださる吉田さん。その知識量には脱帽である。

吉田さん:
でも、4代目5代目となっていくと、だんだん廃れていきます。
なぜなら会津藩そのものが貧乏になったからです。
藩が貧乏になると、百姓は藩から逃げ出してしまう。
誰も耕作をしない放棄地が多くなり、まちの消費が冷え込んでしまった訳です。

しかし6代目伊兵衛の時に、この家は盛り返します。
藩から荷綿(綿の流通)、打ち綿(綿の製造)の独占的販売権(株)を買ったからです。

これは丁度、家老の田中玄宰が行った藩政改革によって、会津が復活する時期に重なります。
福西家も余力ができたので、株を買って鉄や砂糖の商売を手掛け、「近世の資本家」が形成されていきました。

その時にできた分家が、現在の「ホテル大阪屋」です。
そもそも分家を出せる、ということは家が豊かである証拠です。
そして7代目伊兵衛の時に、ますます商売がうまくいきます。

しかしここで戊辰戦争が発生し、この時期の街の商家は衰退していきました。
なぜならこの時期に商家は会津藩に多額のお金を貸していたものの、戻ってこなかったからです。
また商家の多くは疎開していたので、家財も荒らされ失われました。
だから福西家は、明治に入った時期には経営が難しい状態だったのです。

―――激動の福西家ですね・・・。

ここで登場する立役者が、
・7代目伊兵衛の妻のイネさん
・8代目伊兵衛の善運さん
・8代目伊兵衛の妻のフサさん
です。
この三人組が長寿で健康で働き者だったおかげで、福西家は復活できました。

三人組による福西家の復活劇とその終焉

吉田さん:
当時新政府が設置した出先機関と交渉し、商売の権利を取り戻したのです。
明治の7、8年あたりから荷綿の権利、打ち綿の権利、砂糖、鉄、西洋織物(羅紗)を売る権利も取り戻しました。

次第にだんだんと規模が大きくなり、福西家はさらに分家を出します。
それが七日町の漆器(今の福西惣兵衛商店)、味噌醤油の分家です。

現在に残る当時の写真。大きく栄えたことで分家を出すことができた。
8代目伊兵衛が建てた、倉庫や作業場として利用していた母屋蔵。丈夫な赤松で作られている。「ハレとケ」が意識された当時、使う人によって建築材料も異なっていた。
母屋蔵には当時架かっていた階段の跡も残っている。この場所は、今はギャラリーとして利用されている。
明治19年ごろに建てられた約30畳の座敷蔵(ハレの蔵)。床の間の装飾には黒柿という非常に珍しい木が使われ、格式の高い人を出迎えるよう設えも工夫されていた。
床柱や付書院に加えて、絵が両面に施された天袋(リバーシブルに利用できる)、違い棚、装飾ができる貼り壁、清浦奎吾首相の書など、この写真一枚の中に、多数の魅力を見出すことができる。

8代目伊兵衛が一生懸命貯めたお金を、9代目伊兵衛(善真)は今で言うアマゾンやGoogleに投資をしました。
つまり、当時の先端産業の鉄道、銀行、電力に投資をして大株主になり、そこで多額の財産を築いたのです。

当主の奥方や子供が使っていた生活空間には、富岡鉄斎の書が飾られている。書には当主への長寿を祈る言葉が書かれている。当時の調度品には「意味を持つ」作品が多い。
9代目伊兵衛の時に作られた部屋(2階)。一族が集まったハレの場とされる。部屋によってはっきりとした格付けがされており、その違いを目で確認することができる。

9代目伊兵衛は大成功するのですが、大正7年に亡くなってしまいます。
そこからこの福西家は暗転していきます。

蔵を作った後に母屋を作った跡。蔵が先にあり、その周りに建築をしたからこそできる名残を垣間見ることができる。

―――時期としても激動な世の中ですよね。

吉田さん:

第一次世界大戦、関東大震災、中国大陸の戦争と続き日本は不景気になりました。

商売が難しくなっている中、10代目伊兵衛は昭和5年に最後の離れを作ります。
11代目伊兵衛の新婚用の離れです。

10代目伊兵衛が作った昭和5年建築の離れ。11代目の新婚用の住まいであった。数寄屋造りで軽い建築。
萩原盤山作「伊勢物語の東下り」。蔵に眠っている素晴らしい調度品をリメイクし新たな息吹を吹きかける。そうすれば現在でも充分に鑑賞に堪えられる。
竹を使ってゲストがリラックスできるようにしつらえた客室に、美しく復活する絵画。梅に雀が描かれる。雀には子孫繁栄の意味があるなど、お客様を迎える場所には「吉祥文」を使っている。

ところがこの11代目伊兵衛は40代で若死してしまいます。

そうして12代目伊兵衛の時に布団屋を営んでいましたが、布団をまちの布団屋から買う時代ではなくなっていきました。
事業もうまくいかなかった訳です。

―――確かに綿に始まり、綿に終わったのですね。

吉田さん:

そうです。
それで当時、この建物が人手に渡るという話になりましたが、建物を壊されるのももったいないということで、地元の経済界の人たちが会社を立ち上げました。

そしてこの建物を買い取り、2018年6月にリニューアルオープンしたのです。

礼儀の文化に触れてもらうことは価値がある

吉田さん:

例えば、この家は格式の区別が分かりやすくなっていて、右側(南側)がプライベートスペース。左側(北側)がオフィシャルスペースとなっています。
「ハレ」の場(オフィシャル)と「ケ」の場(プライベート)が交わらない動線になっているのです。

その具体的な違いというものは、実際の物を見た方がわかりやすいでしょう。
この建物を残すことの価値はここにあると思います。

いろんな人に来ていただいて文化に触れてもらうことは価値があることだと考えています。

―――「礼儀・道徳」というのものは、今、失われつつある文化と感じていますが。

吉田さん:

物事、文化とは変わっていくものなので、私はそれ自身には抵抗ありません。
ただ日本の経済がインバウンドに依存していかなくてはいけない世の中になっていますよね。
そこで問われるのは日本のアイデンティティーとは何か、ということじゃないですか。

そのアイデンティティーを考えるときに、こういった文化に立ち返る部分が、私はあると思います。
その観点で見学していただければ。

―――だから若い人も見た方がいいと。

吉田さん:

私たちが他の民族と何が違うのかと考えた時に、「己がなんぞや」に立ち返ってみなくてはいけないと思います。
逆にそういう自国のことにプライドがないと、グローバルでは馬鹿にされてしまいます。

―――今、日本のことを語れない日本人が多すぎると感じています。そもそも語るために学ぶ機会も少ない時代になっています。

吉田さん:

侍文化は時代が違いすぎて理解しづらいと思うんです。
だけど、明治・大正・戦前まではまだリアルな実感が持てると思います。
そういう意味で、ここはちょうどいい材料になるのではないでしょうか。

浄土真宗を忠実に信仰した福西家。その信仰心が福西家の発展に大きく寄与したと吉田さんは言う。仏間には7代目伊兵衛の妻イネさんの肖像画が残されている。額も黒柿であしらわれている。
明治40年ごろに撮られたと言われる福西家の集合写真。8代目、9代目伊兵衛が当主の時の全盛期で、育ち良い姿が見て取れる。

過去の歴史と現在は「相似形」であると、吉田さんは仰っておりました。
まったくかけ離れたものではなく、今も昔も同じようなことをやっている。

江戸時代、藩政の改革を行ったイノベーター田中玄宰による会津の復活劇とそこからの会津藩の衰退。
その社会情勢に翻弄されつつも今に歴史、特に日本のアイデンティーを伝えてきた「福西本店」。

ここは「まちの原風景」であると吉田さんは言います。

人に強制するものではないですが、グローバル化が進む社会になっていく中で、このまちの原風景から「日本のアイデンティティー」を学ぶことは、もしかしたら私たちにとって、とても大切なことではないでしょうか。

起業を考える時や何か商いを始めようと思う時、その原点を知ることができる「まちの原風景:福西本店」にみなさんも訪れてみてはいかがでしょう。

福西本店 詳細情報

所在地    福島県会津若松市中町4-16
電話番号   090-9422-2924
ホームページ https://www.fukunishi-honten.jp/
イベント情報 facebookを参照
       https://www.facebook.com/pages/category/Business-Service/%E7%A6%8F%E8%A5%BF%E6%9C%AC%E5%BA%97-208234186461904/

営業時間 午前10時〜午後5時まで(冬期間は午後4時まで)
定休日  年末年始を除き年中無休
入館料  大人300円 中高生200円 小学生100円
     正面の店蔵はセレクトショップで入館無料