現行(2023年時点)の千円札における肖像でおなじみの、野口英世博士。
細菌学者として、医者として、今や知らない人はいないほどに著名な彼は、会津の猪苗代町出身です。
とくに会津若松市では「野口英世青春通り」という名の通りができるほど、会津を中心に広く地元民に愛された存在となっていますが、実はその「野口英世青春通り」すら無かった時代が、ごくごく最近までのことだったと語るのは、
喫茶店「會津壹番館(あいづいちばんかん)」のマスターである、照島敏明(てるしまとしあき)さん。
今回は、会津若松市における野口英世博士の歴史とともに喫茶店を営んできた、照島さんにお話を伺いました。
「東京卒業」で、会津に来たのは「入る余地」があったから。
───もともとのご出身はどちらなのですか?
元々私は東京の人間なんですよ。会津に来たのが昭和51年ですから、47年くらい前。
当時、私はまだ20代。ですが「東京卒業」だということで、こちらへ来たんですよね。全く右も左もわからない。
───「東京卒業」というのはどういった意味でしょうか?
私の生まれ育った家は、東京駅の「八丁堀」というところなんですよ。 だから、東京といっても都心も都心で。 それで「もう都会はいいや」「田舎に行く」ということで、会津を選んできた。
───なぜ会津だったのですか?
ただ単純に、「地方」で生活したい。それだけでした。ですから、本当のところ田舎であれば、どこでもよかった。
ただやっぱり、東京との絡みはもちろん必要なので、遠くはあまりいけないという事情もありました。
言葉が変かもしれないけど、私の入る余地が、会津にはまだあった。だからここに来ました。
「古いものをできる限り残す」これまでの店づくりと苦労
───さきほど、入る余地のお話の上で、会津の土地にもともとゆかりがあったわけではないということでしたが、ではどちらかというと、この會津壹番館のような建物メインで探してこられた結果だったのでしょうか?
そうですね。この建物があったからです。
会津にはこういう喫茶店っていうものが、ほとんどなかったから、私は私で古いものを活かした、古い建物を活かした喫茶店っていうのを作りたかったんです。
───もともとこういったレトロなものがお好きだったのですね。
もちろんです。だからこそ一番最大で、市内に7店舗くらいこういったお店をやってました。
例えば、七日町の「駅カフェ」。今は経営が違いますが、もともとは私が外部から運営を任されていました。
それから、今の人たちは知らないでしょうけども、当時結構有名だった「スイング・スクエア」っていう、「ジャズライブ」ができる店をやったり。
全部並べると、
珈琲自家焙煎の「會津壹番館」、(当時)会津28市町村のアンテナショップ「七日町駅カフェ」、ジャズライブの「スイング・スクエア」、スリランカ直輸入のセイロンティー専門の「セイロンティーガーデン」、会津ブランド館、紀州屋1934「バスカフェ」…。
───めちゃくちゃお店やられてますね!すごい…。笑
なぜそんなにやるかというと、やはり(街にある歴史のあるものは)ちゃんとして形に残しておきたいなという。今後それらがどういうふうになるかわからないじゃないですか。
私は「よそもん」ですから、壊されることにあーだこーだって文句だけを言ってたってね、変わらないなと思うから地道に店にして、保存してきました。
じゃないと本当に、壊されたら終わりなんです。
───現在保存されている古い建物も、照島さんのおかげで残ったんですね。
ただやっぱり、どうしても大変なときもあります。
往々にして、最終的に店が持ちこたえられなくなってしまう理由は、「家賃・借金・人件費」で、これらが三つ揃ってると大変ですよね。
───古いものを保存したい希望と裏腹に、客足が減ったら死活問題ですね。
とくに震災とかコロナでは、やはり一部の店舗をやめざるを得なかった。
だけど最終的に私の手は離れたけども、形としては今でもちゃんと残ってるんでね。
それが一番大事だと思います。
歴史ある會津壹番館の建物から始まった照島さんの「街」への意識
───実は私は、野口英世博士と同じ猪苗代町出身なので、博士が好きでよく調べることがあったのですが、喫茶店になる前は倉庫、その前は病院だったと聞きました。
そうです、前は倉庫です。昭和51年にこの建物を見つけてから、
とりあえず自分の方向性を決めようと思って、
1階で喫茶店をやって、それで将来2階は野口英世の資料館にしたいなって決めて。
ご存知かどうかわからないけど、実はここで、野口英世博士は手の手術をしたんです。
───それが病院のときのお話ですね。
ここで左手の手術※をして、野口は医者になりたいって決意する。
※筆者注
野口英世博士は、1歳の頃に生家で囲炉裏に落ちてしまい、左手に大やけどを負います。
少年期の間も左手に障害が残ったままでした。
手術をするまで野口は、医者になろうとは思ってなかったんですよ。
彼は、教育者になろうと思って一生懸命でした。
でも結局、左手が不自由だったから、先生にはなれないよって周りから言われて。
本当かどうかはわかりませんが、ショックで彼は自分の指を切ろうとしたんですよね。
そうしたら、通っていた学校のみんなで止めて、話し合いをした結果、みんなで彼に手術費を寄付してあげて、彼をここ(会陽病院)に連れてきて手術をさせたら、左手が使えるようになった。
それで彼は医学の素晴らしさに感動して、医者になるんだと決意して、学校を卒業した後、最終的に書生として、ここ元・会陽病院に住み込むわけです。
───渡部鼎(わたなべかなえ)先生のもとでですよね!!(筆者食い気味)
そうそう。そしてこの場所から彼は東京へ旅立ったというわけです。
ですから、「世界の野口博士」の原点はここだ!っていうのは誇りに思ってるので、それを何らかの形にしたいなと思ったわけです。
ただ、私が来た当時は「野口英世=猪苗代」というイメージでした。会津若松には野口の「の」の字もない状態で、彼の歴史を全く押し出していなかったんですね。
この建物も本当は「中合(なかごう)」さんっていうデパートがあったとき、駐車場にするという話があったんです。
───え、そんなに歴史ある建物なのに!
そのときはもう私が先にお借りしてたから、残ったんです。
まず、当時は古い建物がものすごく壊された時期で、私はそれに対して懸念がありました。
街の人たちが、街の発展ということは、イコール近代化だと思っていたんですね。
だから今は「まちなか観光」とうたってますけど、私が会津に来た当時は、市民の多くが「観光客は邪魔者だ」という発想なんですよ。
それも全会津の中核都市としての機能が、会津若松にあるから余計(近代的に)発展しやすいわけです。
───そのために、商業施設なら商業施設をただいっぱい作ろうと。
そうですそうです。
当時、神明通りのアーケード街にも「長崎屋」というデパートがあって、長崎屋の本部に勤めている友人が会津へ来たとき「会津の長崎屋は東北一」と言っていたほど、アーケード街は賑やかでした。
その後店は閉店し、月日が流れた今では、人通りもぱらぱらとなり…。
ですが、それが時代の流れだったのかなって思います。近代化することがイコール街の発展だって、多くの人が信じてた。
───そういう時代だったんですね。
時代における考え方の変化や街の移り変わりの中、今思えばただでさえ喫茶店を開いてからでも40数年間、
会津若松の中で、大町の街づくりや、店を切り盛りするために、一人で切り開いていったのは本当に大変でしたよ。
「街の中で、生きる道を」時代や客層の変化と振り返り
───時代に合わせて、お店の客層は変わっていきましたか?
基本的に、うちはあくまで喫茶店なので、様々な食事を出す飲食店に比べれば、
遠方から喫茶店だけを目的に訪れることは、少ないケースだと思います。
もしかしたら今は、そういうお客さんも割といるかもしれないけど、その理由だと、あったらみんな「スタバ」のほうに行っちゃうでしょ?(笑)
───あったらそうかも…。(笑)
先ほどもお話しましたとおり、私が会津に来たばかりの頃は、神明通りがものすごく発展していたので、街のパワーで食べさせていただいていて。客層は99%地元の人たちの支持があって店をやっているというスタイルでした。
ただもし、そのままどんどんと99%地元の人向けにやっていたら、長くは持たなかった。
なぜかっていうと、とくに今人口が減っていて、何もしなかったら今日から売り上げが下がっていくわけです。そういう危機感を持っていたから、観光客の人たちをメインにと、少しずつ考え方を切り替えていきました。
その甲斐あって、おそらく、今日(取材日)来てる人の7割か8割ぐらいは観光客ですね。地元の人は3割くらい。
だけども、私が店に出る日数よりも、ここに来る日数が多い常連さんは何人かいますよ。
だから、そういう人には、コーヒーのチケットを安くしてあげたりして。そういった形では今も地元の人とも変わらずにやり取りがあって、支えられています。
───変わらないものは変えずに、時代に合わせていったから今も幅広い人に支えられているんですね。
やはり、つくられて来た「街」という中だからこそ、成り立つと思っています。
私は、例えば「まち」であっても、田んぼの真ん中に、一軒家で店をやろうとは思わない。
何の力もない小さい喫茶店が、「街の中で、生きる道を」と思いながら街づくりと喫茶店をやってきて、私としては「やってきてよかったな」と思っています。
───最後に、ここはどんなところですか?
私は、これらの活動のおかげで、この一喫茶店の親父にですよ、
(野口英世博士が黄熱病の研究で貢献した)ガーナの大統領が自ら会ってくれたこともあるんですよ。
野口のために、私がこういった活動をやっていたから、じゃあ応援してあげようねっていう人は、地元だけじゃなく世界にもいたから、私はそういう人たちのおかげで大臣に会えたわけです。
それほどの貴重な経験は、これらなしにはなかったので、そのくらい野口やこの街、そして店は宝物です。
───私も、このお店と街並みはめちゃくちゃ素敵だと思っているので、今後も来れるよう、ずっと宝物であってほしいです!
あとがき
今回はお店自体、というよりも、照島さんの大切にしてきた建物と歴史、街に対する意識にスポットを当ててご紹介しました。
野口英世青春通りや大町・七日町周辺の風合いは、照島さんの姿勢なしでは、成し得なかったと思えるほどの貴重な経験談でした。
會津壹番館の店内は、天吊りされた真空管アンプのレトロな舞台用スピーカー、こだわりのカップや洋酒を使用したおしゃれなケーキなどもあって、観光ポスターの撮影に採用されるほどのドラマチックな空間となっています。
(余談ながら、筆者も以前、自前の浴衣を着てロマンに浸りに来たことがあるほどおしゃれです。笑)
2階は併設の野口英世青春館として、野口英世博士に関する資料室となっており、歴史も改めて学べますので、ぜひ時の流れを感じながら、訪れてみてくださいね。