取材記事

【そば道場磐梯明神亭】細麺こだわり蕎麦屋

今回は、そば道場の息子さんに話を聞きました。

普段お店は、お父様と息子様で行っていて、今回、お忙しい時間にお邪魔してしまい、息子さんにそば打ちをしながら取材をする形となりました。

途中からお父様も帰って来られ、一緒に蕎麦を作って頂きました。

息子さんのそば道場を継ごうと思った背景やお父様のそば道場にかける想いを聞いて来ました。

東京で修行し、代々続く、そば道場へ

ーーーいつ頃からそば道場を継がれていらっしゃるのですか?

21歳の時から5年間、修行をしていて、26、7歳くらいから、ちょうど20年前の5月ごろに帰ってきました。もともと祖父と祖母がやっていたので。ここでやることになんとなく辿り着きました。

ーーーもともとここでやっていたんですか?

以前は川を挟んで反対側の、今、遊歩道になっているあたりに家があって。こっちに引っ越して家を建てたときに、ここも小屋として建てたんです。

そこで以前からそば打ちをやっていた祖父が定年退職をして、始めました。

ーーーおじい様が始められたのは何年前ですか?

平成元年です。32、3年前ですね。

ーーーおじい様とおばあ様がここを始められて、お父様がやり始めたのは、すぐだったのですか?

うちの親父もそば打ちはやっていたので。一緒にやり始めたのは、イベントがあると親父が行っていたんですね。

忙しいときは手伝うという形ではあったのですが、本格的にやるようになったのは、祖父が亡くなってからですね。7年ぐらい前からです。

ーーーそれはお父様が中心にやられているのですか?

店自体は、私の名義になっているので、親父は手伝いとか、イベントがあるとイベントをやりに行くという形で。

ーーー21歳ぐらいからはどこで修行されていたんですか?

21歳の6月に、東京の八王子にある『手打ちそば車屋』さんに行って修行を始めて、26歳で、5年間やって帰ってきました。

そこからここで20年やっています。

ーーー なぜ、『手打ちそば車屋』さんで修行をしようと思ったんですか?

『手打ちそば車屋』さんを紹介してくれたのが、会津若松の桐屋さんという有名なそば屋さんなんですけど、最初は桐屋さんに行きました。

親父がイベントなんかで桐屋さんと一緒になっていたので、一回、桐屋さんに相談に行ったら、ここで修行するのではなくて、離れたところに出た方がいいというので、東京八王子の『手打ちそば車屋』さんを紹介してくださって、そこに行くことになりました。

はじめは、小説家を目指していた!?

ーーー高校を卒業してからは、福島で2年間ぐらい働かれていたんですか?

東京にいたんです。代々木アニメーション学園に。ジュニアノベルス科という小説の書き方を教えてくれる科です。

新聞奨学生という制度を使って、2年間、自分で学費は稼いぎました。

ーーーそーだったんですか!初めから、そば打ちじゃないんですね!

そうなんですよ〜〜〜。

ーーーその中で小説を書くのではなく、そば打ちに方向転換したのはなぜなのですか?

正直、小説を書くのは難しかったです。新聞配達をしていて眠くて、学校にもあまり行けなくて。実際に小説家になれた人もいたんですけど。私は、厳しいなと感じました。

ーーーそれでそば打ちをやろうと。

兄がいますけど、兄が別の仕事をやっていたので、自分がやるかと。もともとそばが好きだったんです。子供の頃からずっと好きだったんです。

そばはずっと手打ちそばだったので。スーパーのそばも、店のそばも食べたことがなかったです。

そばというのは手打ちそばのことだったので。おいしかったので。

そのときは親父が別の仕事をしていたので、自分がやろうかと思って。じゃあ修行に出ようということになって。

それを会津若松の桐屋さんに相談したら、東京の『手打ちそば車屋』さんを紹介されてそこで5年間修行されたんですね。僕はそば打ちの世界が想像できないんですけど、お寿司やさんは、独り立ちするのに、すごく時間がかかるイメージがあるんですけど。

同じ感じですよ。最初は洗い場から。そばなんて全く。

ーーーやっぱり厳しい世界なんですね。

5年間いろっていったのは桐屋さんで、『手打ちそば車屋』の社長の考えでは3年でいいだろうということだったんですけど、自分は5年間いるということを決めて頑張りました。

ーーーお住まいもそこの近くだったんですか?

はい、お店のすぐ近くに。京王線の、南大沢駅と京王堀之内駅のちょうど中間ぐらいの所だったんです。

ーーー僕、多摩センターに住んでいたので、まさに行っていました。

聖蹟桜ヶ丘駅よく買い物に行っていました。そこにNECがあって、中学校の同級生が働いていたので。

ーーーすごい親近感が湧きました(笑)東京で5年間修行して、こちらに戻ってきたのは2000年頃ですか?

ちょうどそうですね、2000年頃ですね。

じいちゃんばあちゃんと一緒にやっていたんですけど、やり方がちょっと違うので、優しい人でしたけど、仕事は結構厳しい、きちっとやる仕事だったので。

修行から帰ってきたら、新しいことをやりたいじゃないですか。どうしても、ぶつかりはしましたけど、なんとかやってますね〜(笑)

会津のそば文化の原点

ーーー震災の時は影響はありましたか?

原発事故があったので。やっぱりそうですね。

ーーーお客様があまりこなくなったんですか?

はい、震災の前にはリーマンショックもありましたし。

リーマンショックの時も人が減りましたし。震災の時もだいぶお客さんは減りましたね。

ーーーコロナでも影響を感じますか?

感じますね。

ーーーお客様は観光客が多かったのですか?

観光客が多かったです。地元のお客様はあまりこないです。地元の人は自分の家で打って食べるので。

ーーーこの地域の人は自分でそばを打つのですか?

年配の人はみんな、そば打ちをやるので。

ーーーそれはなぜですか?そばの畑があるんですか?

結構あります。

もともと磐梯町のあたりは、そば文化だったんです。会津のお殿様が最初、会津藩初代藩主 保科正之が、長野県の高遠藩で育ったので、そこから、そば文化を持ってきたんです。

結構、有名な話なんですけど、保科正之は、徳川二代将軍 秀忠の妾の子で、正妻にばれたら殺されちゃうって言うので、高遠藩の保科家が引き取って育てたんです。

義理の兄の三代将軍 家光が一番信頼していたのが、義理の弟の保科正之だったと言われています。

保科正之が会津に来たときに、その技術、食文化も一緒についてきますから。

ーーーじゃあ江戸時代にその文化が来て、大事に伝わって。家庭で作ることが多いから、地元の人にとっては自分の家で作ってしまうんですね。

だいたい自分の家で作るようなものですね。

ーーー僕は中通りの郡山市出身なので、全く蕎麦作る風習を見たことがないので、びっくりです!話は変わるのですが、やっぱり観光客など、外から来てくださる方が多いんですか?

そうですね。観光シーズン、連休、お盆とかゴールデンウィーク、あと10月、11月ですね。ちょうど新そばの時期と、紅葉の時期と重なるので、お客様がいらっしゃいます。

今日みたいに雪が降ると、ぴたっと来なくなっちゃう。

1月、2月、3月の3ヶ月間は、どうしても、ちょっと暇になります。

ーーーそばのお店で一番大変なことはなんですか?

そば以外でも、仕込みから、準備、店の掃除をやったり、飲食業は仕事の7割、8割が、仕込みとか開店準備とかです。

そば道場の魅力は?

bandai

ーーーそば打ちの魅力ってどんなところですか?こういう時が嬉しいなとか。

一番嬉しいのは、お客様に「美味しかったです」って言われたときです。

ーーー始めて食べさせて頂いたんですけど、麺が細くて、香りがすごく良かったです。僕、全然そばに詳しくないんですけど、明らかに素人でも分かる、美味しさだと感じました。

産地によって、同じそばでも、違いがあるんです。ちょうどここは、そばを育てるのに土地が適していて、気候も、磐梯町は水もいいですし。美味しいそばを作るのにいい条件がそろっているんです。

あとは、そばつゆを作る醤油にしても、地元の会津坂下町の美味しい醤油屋さんがあるんです。

会津坂下町の醤油屋さんと、磐梯町にある酒屋さんが親戚だったので、それでその醤油が手に入ったんです。

ーーー他のそば屋さんと違う、そば道場さんのこだわりはありますか?

磐梯そばとあるように、磐梯町産のそば粉を使っています。会津そばというのは会津地方のいろいろなそば粉をブレンドしてしまうんですけど、磐梯そばは磐梯町産のそば粉だけで、よその産地のそば粉は一切ブレンドしません。

ーーー麺が細いですよね。

修行していたお店が細切りだったので、その影響もあります。

最後に

インタビューを受けてくださった息子さんのそば打ちを始めるまでの経緯をお聞きし、小説家を目指していたところから、修行をして、現在のそば道場を継いだというエピソードが素敵だなと感じました。

お父様の想いを受け継ぎながら、素敵な會津蕎麦を伝承するそば道場さん、皆さんもぜひ尋ねてみてください!

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大川翔
福島を変革する男、今日もOK!!代表大川翔 福島県郡山市出身。南相馬市在住。 あいづっぺでぃあでは、学生統括・ライターとして活動しています。